
ヤッホー!僕、徳川慶喜!
江戸幕府最後の将軍DEATH!
ぶっちゃけもーちょい気楽な時代に将軍なりたかったよね。トホホ・・・
そんなこんなで今だから話せる、みんなが気になるあの日の事をお話しするよ。
1868年1月3日から6日、薩摩藩と長州藩を中心とする新政府軍と、僕慶喜擁する旧幕府軍が争った鳥羽・伏見の戦い。
旧幕府側は1万5000に対し、新政府(薩長)側は4~5000しかいなかったんだけど、超超つえ〜の。
薩摩藩の大砲とか、とにかく武器がヤバい!マイクタイソン級!
しかも、新政府側に錦旗が渡されちゃうし・・・
あっ、錦旗ってのは天皇の旗で、この旗を持つと言うことは、天皇が味方ということね。
そして、僕たちは天皇の敵になっちゃったんだよね〜
まじかと。
もう戦意喪失。ぶっちゃけ完全に戦う気が失せたわwww
それで、どうにか1月5日大阪城まで撤退してきて。
もうやる気ナックスだったんだけど、僕さすがに幕府のトップじゃん?!
ここは一発かましたろうと、後世に残る大演説を行ったのよ。
「事、すでにここに至る…たとえ、千騎討ち死にして一騎になろうとも…決して退くな!!
奮戦一番、全力を尽くしてもらいたい…たとえ大阪で敗れても江戸城がある…
江戸城が敗れても水戸がある…中途で屈せず、最後の最後まで戦おうではないか!!うんたらかんたら〜〜〜〜」
これが、感動の嵐!!超盛り上がり!!
士気も爆爆爆上がりよ↑↑
その夜ですよ。
ぶちかましたはいいけど、ハイ、内心めっちゃビビってました。
なので松平容保の側近、神保修理長輝(ながてる)に聞いてみたのよ。
そしたら・・・
「このような事態に至っては、もはやなすべき方法はございません。
内府様におかれましては、速やかに江戸にお帰りになり、落ち着いて善後の策をめぐらされるのがよろしいかと思われます。(『昔夢会筆記』)」
おぉ、神保〜〜><だよね!だよね!
僕もそれがいいと思ってたんだよ〜〜!!!
(※神保修理長輝は、後に藩士たちの反感を買い、追いやられ切腹することになる・・)
ーーーーそして次の日の夜ーーーーーー

この脱出劇に同行したのは、松平容保(かたもり)、前京都所司代の松平定敬(さだあき)、老中の板倉勝静(かつきよ)、老中酒井忠惇(ただとう)若年寄永井尚志(なおゆき)、愛妾お芳(侠客新門辰五郎の娘)他、わずかな側近のみ。
松平容保・定敬兄弟には、脱出直前に伝えて、もち反対されたけど強制的に連れて行っちゃった。
僕たちは、小姓になりすましコソコソと城の裏口から出て、天満八軒家から川船に乗り込み、天保山へ向かって行ったのよ。
天保山に停泊予定の幕府の軍艦開陽丸に乗って、江戸に向かう予定だったんだけどーーーーー

ないのよ・・
船がどこにもない><
暗いし、1月やから寒いし、あの時はほんま辛かったー(泣)

仕方ないから、大坂湾内に停泊中だった米国艦に一時乗船させてもらうことになり。
・・・・だが、乗船には許可証が必要だった!

若手のホープ(?)平山図書頭(幕府外国奉行)が許可証を取りに行くことに・・・
平山クン、早く戻ってきてーーーー
ーー続くーー
※この記事は、多少妄想入ってます。