あの夜何があったの?あの夜の慶喜サン②

あの夜何があったの?あの夜の慶喜サン②

ハーイ!僕、徳川慶喜!

今日は前回の続きを話すね!

前回を見てない人はサラーっと読んでね↓

乗船許可証をもらいに行った、平山図書頭。

無事に駐日米国公使R.B.V.ファルケンブルグに書状をもらえたみたい。

良かったーーー!!

バンさん!平山クン、サンキュー!

これでようやく寒さから解放されるよーー!

(米国国務省作成の外交公式文書の歴史記録に、同公使からスーワード国務長官にあてた慶応4年正月10日(1868年2月3日)付けの書簡が収録されている。
米軍艦イロコイ号が大坂沖に到着した。(中略)大君自身がイロコイ号にその夜に乗船して、彼の船つまり日本のフリゲ-ト艦開陽丸が翌朝早く彼を乗せて江戸へ連れていくまでの間、乗船する許可を求めてきた。私はイロコイ号のイングリッシュ艦長あてに書状を書いた。大君は彼の大坂城から避難して、慶應4年正月7日(1986年1月31日)のおよそ午前2時に、彼の老中ほか幕閣たちを伴ってイロコイ号に乗船した。2時間ほど滞在し、それから彼の配下のフリゲ-ト艦へ移乗していった。すでに日中となり、彼は江戸へ引き上げていった」)

結局、乗船できたのは夜中の2時(3時?)。まじで凍死する・・・

僕たちが乗る船は、米軍艦イロコイ号。

イングリッシュ艦長、恩に着るぜ!

イロコイ号、まじでけぇ。

長さ60メートル、1488トン、13門の大砲が設置されている巨大軍艦で、約230名もの将兵が乗艦してたんよ!

彼らはいい奴らで、お酒やご飯も出してくれたんだよね!

アメリカ最高〜

色々あって疲れてたから飲みすぎちゃったw

(イロコイ号副長マハン少佐が母親に宛てた手紙において、徳川慶喜一行を迎えた事件を次のように書き送っている

「タイクーン(慶喜)と反乱を起こしたダイミョーとのあいだにいくさがあり、タイクーンの旗色が悪く、タイクーンは逃げ出さざるをえなくなりました。タイクーンは自らいくさをすることなく、不名誉なことに、オーサカからエドに、自軍のフリゲートで逃げようとしたのです。
自分の艦が見つけられないので、アメリカ領事によるイロコイ号乗船許可の書状を持参してイロコイ号にやってきました。われわれはタイクーンを迎えるという名誉をもったわけです。
午前三時に、お忍び姿のタイクーンが乗艦。アメリカ領事の書状には、彼等は、極めて高い地位にある将校と書かれておりました。艦長は彼らを手厚くもてなさねばなりませんでした。
その日の朝七時半、彼らはイロコイ号を離れました。この日は風が強く、ボートは木の葉のように揺れ、うすら寒い朝のぬれた甲板に集まった彼らほど哀れそうな人々を今までに見たことがありません。酒を大分飲んでいたようで(艦長から酒食のもてなしを受けた-筆者注)、サンダルは冷え切っており、ガタガタふるえておりました。
刀を二本差し、ピストルをもった彼らがボートに乗り移るとき、イロコイ号の水兵が彼らを子供のようにかかえてボートに乗せましたが、その状況は、哀れでもあり、こっけいでもありました。
日本人は大変小さな人種で、ヒゲもほとんどなく、少年たちが兵隊ごっこをしているように見えます。
強風のため、二十四時間、アメリカ領事との連絡がつかず、反乱の頭のチョーシン(注:チョーシュー)とサツマの軍隊はまだオーサカにきていないようです。・・・・以下略」

マハーーーーーーーーーン!!><

次回はいよいよ、クライマックスだよ!

僕は無事に江戸へ帰ることができるのかな?

お楽しみに!

※この記事は、多少妄想入ってます。