ヤッホーーー!僕、徳川慶喜!
ついに今回はラストだよ。
〜前回のおさらい〜
大阪城をこっそり抜けだして江戸に帰ろうとしたんだけど、船が見つからなくて。。。><ツライ。
なので、船が見つかるまでアメリカの軍艦イロコイ号に乗せてもらったんだよー
詳しくはこちらを見てね↓
朝になり、僕たちが乗るはずだった開陽丸がようやく見つかったんだ。
これでようやく出航できるよーーーーと思ったんだけど・・・・

なんと、艦長の榎本武揚は、大阪城に戦況を見に行っており不在だという!
なんで今やねんっ!!
副艦長の沢太郎左衛門は、「艦長不在のままでは出航できない!」って船出してくれないから、無理矢理出航させたよ。ごめんね、副艦長。

ふぅ。無事に出航できて良かったーーーー

船内で、松平容保にちょっと責められたんだ。
「去る5日、内府様は勇ましい演説を行い、我が軍の士気は大いに盛り上がりました。
お言葉の通り、内府様が出陣されれば、数日の敗戦を覆すことができたはずです。
それなのに、何故、こうも急に東帰することを決心されたのか。」(『会津戊辰戦史』)
「あのような調子でやらなければ、皆が奮い立たないからだ。あれは一種の方便だよ。」(『会津戊辰戦史』)
容保、もう絶句だよねーーー
その後、船に揺れながら色々考えて、だいぶまとまって来たから船長室に板倉を呼び寄せたのよ。
「江戸に戻ったら、自分は恭順謹慎して、朝廷の仰せの通りに従う決心をした。決して抗戦はしない。皆そのように心得て欲しい。」(『昔夢会筆記』)
温厚な板倉もびっくりしてたなぁ。
うーーーん、、なんかもう疲れちゃったんだよね。
移住でもして、ゆっくり余生を過ごしたいなーーーと。
もう、争いはやめようよ。平和にいこーぜ!!

何はともあれ、慶応4年1月12日8時30分過ぎに「将軍お上り場」にようやく上陸!
出迎えてくれた勝海舟には「敗戦の責任はあなたにある」とかめっちゃ怒られるし。
ハイハイ、僕の責任ですよーーーーー
はぁ。水戸へ帰りたい。。。
その後の慶喜は、上野寛永寺にて恭順謹慎を実行。
幕府の後始末は勝海舟に任せ、勝海舟の交渉により無血開城で江戸城を明け渡すことになりました。
「腰抜け」「臆病者」と批判を集めやすい慶喜ですが、この逃亡があったからこそスムーズな政権移譲が実現できとも言えるのではないでしょうか。
ー終ー